『サウンド・オブ・ミュージック』は、実在したトラップ・ファミリーの波乱万丈な歩みをモデルに描いた、1965年公開のミュージカル映画です。
この記事では、
- 実在したトラップ家の人物プロフィール
- 実際の出来事の時系列(先妻の死から米国定住まで)
- 映画と実話の具体的な違い
- マリアさんが映画プレミアに招待されなかった経緯
- 子供たちのその後の人生
こちらを解説していきます。
『サウンド・オブ・ミュージック』は実話を元ネタにした作品
結論から言うと、『サウンド・オブ・ミュージック』は実在のトラップ・ファミリーをモデルにした、実話ベースの作品です。
映画の原点は、マリア・フォン・トラップさんが1949年に出版した自伝『The Story of the Trapp Family Singers』。
この自伝がまず1956年に西ドイツで映画化され、続いて1959年にブロードウェイのミュージカルとして上演されました。
そして1960年、20th Century Foxが映画化権を当時としては多額の125万ドル(約2億円)で買い取り、
ジュリー・アンドリュースさん主演で制作したのが、1965年の世界的大ヒット作です。
ただし、映画にはハリウッド向けの大幅な脚色が施されており、
逃亡劇のシーンや登場人物の性格、子供たちの名前に至るまで、実際の出来事とは異なる部分が多くあります。
実際のトラップ家の歴史は、映画が描く「明るいミュージカル」よりも、はるかに複雑で、人間味に溢れた物語でもあるのです。
トラップ家の実在モデルとは
ゲオルク・フォン・トラップのプロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | ゲオルク・フォン・トラップ |
| 生年 | 1880年(ザダル/現クロアチア生まれ) |
| 職業 | オーストリア=ハンガリー帝国海軍 潜水艦艦長(退役) |
| 最初の結婚 | アガーテ・ホワイトヘッドと1912年に結婚、7人の子供をもうける |
| 2度目の結婚 | マリア・クチェラと1927年に結婚 |
| 死亡 | 1947年(心臓疾患、バーモント州) |
ゲオルクさんは第一次世界大戦で潜水艦艦長として活躍し、帝国から男爵の称号を授与された軍人でした。
映画では「ホイッスルで子供を呼ぶ厳格な父」として描かれていますが、
実際のゲオルクさんはギターを弾き、歌が好きな音楽的な父親だったとされています。
マリア・フォン・トラップのプロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | マリア・アウグスタ・クチェラ |
| 生年 | 1905年1月(列車の中で誕生) |
| 幼少期 | 2歳で母を亡くし、虐待的な環境で育つ |
| 来訪 | 1926年、修道院からトラップ家へ家庭教師として派遣 |
| 結婚 | 1927年、ゲオルクと結婚(25歳の年齢差) |
| 死亡 | 1987年(享年82歳) |
映画のマリアは「明るくてお茶目な修道女見習い」として描かれていますが、
実際のマリアさんは気性が激しく、家族の中でも「支配的」と評されるほどの強い意志の持ち主だったようです。
後年、実在のマリアさんはジュリー・アンドリュースさんに対し、
「おてんばに演じてくれたことに感謝する。
それが私の本当の姿だったから」
と語ったエピソードが残っています。
実話の時系列
1912年〜1922年:先妻アガーテとの家庭
ゲオルクさんは1912年、魚雷の発明者ロバート・ホワイトヘッドの孫娘であるアガーテ・ホワイトヘッドさんと結婚しました。
アガーテさんは優れたピアニストで、子供たちに幼い頃からヴァイオリン、ピアノ、歌唱を教えていました。
家庭には常に音楽が溢れていましたが、1921年に猩紅熱(しょうこうねつ)が流行し、5人の子供たちが次々と感染します。
アガーテさんも必死に看病をしましたが、自らも感染して重症化し、1922年9月、31歳の若さで亡くなりました。
悲嘆に暮れたゲオルクさんは、妻との思い出が詰まったアドリア海沿岸の邸宅を離れ、
ザルツブルク近郊のアイゲン地区にある「ヴィラ・トラップ」へと一家で移住することになるのです。
1926年〜1927年:マリアの来訪と再婚
1926年、猩紅熱後にリウマチ熱を患い通学困難になっていた次女マリアのために、
ゲオルクさんはノンンベルク修道院へ家庭教師の派遣を依頼しました。
修道院から送られてきたのが、見習い修道女のマリア・クチェラさんです。
マリアさんはすぐに子供たちの信頼を勝ち取り、ゲオルクさんの心もつかんでいきました。
ゲオルクさんから求婚されたマリアさんですが、本人は後に
「愛していたのは子供たちであり、ゲオルク自身ではなかった」
と告白しています。
修道院の尼僧たちから「神の御心に従うように」と強く説得され、
マリアさんは修道院に戻る夢を諦め、1927年11月にゲオルクさんと結婚。
ゲオルクさんとは25歳もの年齢差がありました。
1930年代初頭:世界恐慌で資産がほぼ消滅
マリアさんとの再婚後、トラップ家には新たに子供が生まれ、比較的穏やかな日々を過ごしていました。
しかし1930年代初頭、世界恐慌が一家に壊滅的な打撃を与えます。
ゲオルクさんが先妻アガーテさんから引き継いだ莫大な資産を預けていたオーストリア国内の銀行が、世界恐慌の余波で経営破綻。
一家の財産はほぼすべて、数日のうちに消えてしまったのです。
マリアさんは貴族としてのプライドを脇に置き、使用人を全員解雇し、
邸宅の2階部分を下宿として観光客や学生に貸し出すことで生活費を工面しました。
1935年〜1936年:音楽活動の本格化とプロデビュー
1935年、下宿人としてヴィラに滞在するようになったフランツ・ヴァスナー神父が、一家の合唱の才能を見抜き、本格的な指導を始めます。
ヴァスナー神父はカトリック神学の博士号を持ちながら音楽にも精通した人物で、
一家にルネサンス音楽やバロック音楽、オーストリア民謡の精密な編曲を施しました。
1936年、著名なソプラノ歌手ロッテ・レーマンさんが下宿を訪れ、
一家の歌声に感銘を受け、ザルツブルク音楽祭の合唱コンクールへの参加を勧めます。
ゲオルクさんは最初「貴族が舞台で歌うのは品位を傷つける」と強く反対しましたが、家族の生活を守るためにやがて受け入れることに。
コンクールで優勝した一家は、「トラップ・ファミリー聖歌隊」としてプロの音楽家の道を歩み始めました。
1938年:ナチスからの合法的な脱出
1938年3月、ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)すると、
トラップ家にはナチスからさまざまな要請が届くようになりました。
ゲオルクさんへのドイツ海軍への復帰要請、ヒトラーの誕生日パーティでの歌唱要請・・・。
このいずれも一家は受け入れなかったのです。
決断のきっかけの一つは長男のルーペルトさんで、
同僚のユダヤ人医師たちがナチスによって不当に解雇されたことに抗議し、自ら病院を辞職した出来事でした。
ゲオルクさんは家族を集め、
「家や財産はすべて失うことになるが、魂と信仰を守るためにオーストリアを去るべきだ」
と説得したとされています。
一家は「米国へのコンサートツアーに行く」と周囲に伝え、荷物を最小限にまとめ、自宅裏の線路を渡り、
地元のアイゲン駅からイタリア行きの列車に乗り込みました。
誰も彼らを怪しまず、阻止する兵士も現れませんでした。
これが可能だった理由は、ゲオルクさんの出身地にあります。
彼はオーストリア=ハンガリー帝国領だったザダル(現クロアチア)生まれでしたが、
1920年のラパッロ条約によってザダルがイタリア領になった際、自動的にイタリア国籍を取得していたのです。
その権利はマリアさんと子供たち全員にも適用されており、
一家はイタリア市民として合法的にパスポートを提示し、ナチスの干渉を受けることなくイタリアへ出国できました。
その後、フランス、ロンドンを経由して、同年9月には米国へと向かう船に乗り込んでいます。
1939年:米国再入国とエリス島での拘束
「トラップ・ファミリー・シンガーズ」としてツアー活動を始めた一家でしたが、
1939年10月、北欧スカンジナビアのツアーからニューヨークへ戻った際に思わぬ事態が起きます。
入国審査官に「米国にどのくらい滞在するつもりか」と聞かれたマリアさんが、
「ここにいられて本当に嬉しい。もう二度とこの国を離れたくありません!」
と叫んでしまったため、観光ビザでありながら「永住の意思あり」とみなされ、移民法違反の疑いをかけられてしまいました。
一家はエリス島の施設に数日間拘束され、興行エージェントの介入によってようやく解放されました。
移民としての法的な立場は、その後も長年にわたって不安定なまま続きます。
1942年〜1948年:バーモントへの定住と米国市民権の取得
1942年、オーストリアのアルプスに似た美しい山景に惹かれ、一家はバーモント州ストウに660エーカーの農場を購入しました。
この家をラテン語で「一つの心」を意味する「Cor Unum(コル・ウヌム)」と名付け、新たな生活の拠点としました。
帰化のプロセスは複雑で、段階的に進められていきます。
1944年にマリアさんと娘たちがバーモント州の連邦地方裁判所で帰化意向表明書を提出。
息子たちは米軍への入隊による戦時特例で早期に市民権を取得し、マリアさんたちの正式な市民権取得は1948年のことでした。
家長のゲオルクさんは1947年に心臓疾患で亡くなったため、
正式な米国市民権を取得しないまま、バーモント州の家族墓地に埋葬されることになりました。
1956年:映像化権を9,000ドルで手放した経緯
1949年に出版されたマリアさんの自伝はベストセラーとなり、すぐに映画化の話が持ち込まれました。
1956年、西ドイツの映画会社が映像化権の買い取りを申し出た際、
交渉を担当したエージェントがマリアさんに「ドイツの法律では、外国人にロイヤリティを支払うことは禁止されている」と告げたのです。
これは完全な虚偽でしたが、経済的に余裕のなかったマリアさんはこれを信じ込み、
トラップ家の物語すべての映像化権を、わずか9,000ドル(約150万円)の一括払いで手放してしまいました。
このドイツ映画が西ドイツ国内で興行収入600万マルク(約5.7億円)を超える大ヒットを記録し、
ブロードウェイ化、さらには20th Century Foxによる125万ドルでの映画化権購入へとつながっていきます。
しかし、すでに映像権を手放しているトラップ家には一切の興行収入ロイヤリティは支払われませんでした。
制作者側が道義的配慮から映画売上の一部を「贈与」したものの、それは映画がもたらした巨万の富のほんの一部に過ぎなかったのです。
映画『サウンド・オブ・ミュージック』と実話の違い
| 項目 | 映画での描写 | 実際の事実 |
|---|---|---|
| 逃亡ルート | 夜中にアルプスを徒歩でスイスへ越える | 昼間に列車でイタリアへ合法的に出国 |
| ゲオルクの性格 | ホイッスルで子供を呼ぶ厳格な父 | 音楽好きで優しく、音楽的な家庭を作っていた |
| マリアの性格 | 従順で甘くお茶目な修道女見習い | 気性が激しく支配的、強い意志で家族を導いた |
| 子供たちの名前・人数 | 7人(リーズル、フリードリヒ、ルイーザ他) | 先妻との子7人+マリアとの子3人、計10人 |
| 家庭での音楽 | マリアが来るまで音楽が禁止されていた | 先妻アガーテの時代から音楽に溢れた家庭だった |
| マックス(音楽プロモーター) | 世俗的で日和見主義な架空の人物 | モデルはフランツ・ヴァスナー神父(厳格な音楽博士) |
| エルザ男爵夫人(婚約者) | 高慢な都会的女性でマリアを追い落とそうとする | モデルはイヴォンヌ王女。実際にマリアに「ゲオルクはあなたに恋している」と教えた人物 |
| ロルフ(電報配達員) | リーズルの恋人でのちナチス突撃隊員に | 完全な創作。実在のモデルはいない |
| 撮影された邸宅 | フロンブルク城(正面)とレオポルドスクロン宮殿(裏庭)の合成 | 実際のトラップ邸(ヴィラ・トラップ)は映画に一切登場しない |
ゲオルクの「厳格な父」像はほぼ創作
映画では、ゲオルクさんが子供たちをホイッスルで呼び、軍隊のような規律を課す冷酷な父親として描かれています。
しかし実際には、ゲオルクさんは先妻アガーテさんの時代から子供たちと一緒にギターを弾き、海軍の古い歌を歌って聞かせる音楽的な父親でした。
長女のアガーテさんは、2003年に出版した自伝の中でこう書いています。
「父が歌う海軍の古い歌やギターの伴奏は、私たちの家庭にとって常に喜びの中心であり、
第二の母親(マリア)が来る前から、私たちは音楽を心から楽しんでいた」
「音楽が禁止された家庭」はハリウッドによる創作であり、
先妻アガーテさんの死によるゲオルクさんの喪失感を劇的に強調するために付け加えられた設定だったのです。
逃亡劇はアルプス越えではなく列車での合法出国
映画最大の見せ場である「夜中にアルプスを越えてスイスへ逃げる」シーンは、完全な創作です。
実際には、一家は「コンサートツアーへ向かう」と周囲に伝え、昼間に普通の列車でイタリアへ出国しました。
地理的にも映画の設定は成立しません。
ザルツブルクからアルプスを越えると辿り着くのはスイスではなくドイツになるわけで、
映画の逃亡ルートは地図上でもあり得ない経路なのです。
子供たちの名前と年齢は大きく変更されている
映画では7人の子供たちが登場しますが、実際には先妻との間に7人、マリアさんとの間に3人の計10人の子供がいました。
名前や年齢も映画用に大きく変更されています。
たとえば、映画の「リーズル(16歳)」のモデルとなった長女の実名はアガーテさんで、亡命時はすでに20代。
「フリードリヒ(14歳の少年)」として描かれた長男のモデルである実在のルーペルトさんは、亡命時は20代後半の現役医師でした。
マリアさんが映画プレミアに招待されなかった経緯
1965年3月、ニューヨークで映画『サウンド・オブ・ミュージック』の華やかなプレミア上映会が開催されました。
しかし、物語の原作者であるマリアさんには招待状が届いていなかったのです。
不審に思ったマリアさんが配給会社に抗議すると、プロデューサーからの返答はこうでした。
「すでに満席で、空いている席は一つもない」
お詫びの言葉もなく、自分の人生を描いた映画のプレミア上映会から締め出されたマリアさん。
自分の物語が商品化される中で、当の本人がいかに冷酷に扱われるかを如実に示す出来事として、この一件は長く一家の記憶に刻まれています。
ジュリー・アンドリュースと実在のマリアの対面
1973年、テレビ番組『ザ・ジュリー・アンドリュース・アワー』において、
映画のマリアを演じたジュリー・アンドリュースさんと、実在のマリア・フォン・トラップさんが歴史的な共演を果たしました。
放送中、実在のマリアさんはジュリーさんに対してこう語りました。
「あなたが映画の中で私の役を"おてんば"として演じてくれたことに、心から感謝します。
なぜなら、それが私の本当の姿だったからです」
マリアさんはその場でジュリーさんにアルプス地方特有の歌唱法「ヨードル」を直接指導し、二人が並んで声を合わせて歌うパフォーマンスを披露。
「ジュリーはあまりにも上品で優しすぎる」と不満を漏らすこともあったというマリアさんですが、この共演を経て二人の親交は深まっていきます。
「映画の私は上品すぎる」というマリアさんの言葉には、自分という人間を正直に見つめる率直さが滲み出ています。
子供たちのその後
映画では楽しそうに歌う子供たちですが、実際のトラップ家の子供たちはそれぞれ、米国でたくましく生きていきました。
- 長男・ルーペルト:医師として活躍し、1992年に死去
- 長女・アガーテ:メリーランド州で幼稚園教諭として子供たちに美術と音楽を教え続け、2010年に死去。父の真の姿を伝えるため2003年に自叙伝を出版
- 次女・マリア・フランツィスカ:パプアニューギニアで30年間カトリックの宣教師・医療ボランティアとして従事し、2014年に99歳で死去
- 次男・ウェルナー:バーモント州で「フォン・トラップ・ファミリー農場」を設立。現在は孫世代が引き継ぎ、受賞歴のある職人チーズブランドとして成長
- 三女・ヘドヴィク:バーモント州のロッジで音楽教師として活動し、1972年に死去
- 五女・マルティナ:1951年、旅行中に出産の合併症により30歳で急逝。一家の中で最も悲劇的な結末を迎えた
末息子のヨハネスさんは、ダートマス大学・イェール大学で学んだ後、「トラップ・ファミリー・ロッジ」の経営主導権を握りました。
1980年に火災でオリジナルのロッジが全焼した際、ヨハネスさんはこれを再建の好機とみなし、
2,600エーカーの敷地に96室を誇るアルパイン・スタイルの高級リゾートホテルへと生まれ変わらせます。
さらに2010年にはロッジの敷地内に「フォン・トラップ・ブリューイング」を設立し、オーストリア風ラガービールの醸造事業も始めました。
かつて「合唱隊」として世界を回ったトラップ・ファミリーは、現在バーモント州を代表するロッジ・農場・醸造所のブランドへと進化しています。
まとめと人気の実話解説記事
- 『サウンド・オブ・ミュージック』はマリア・フォン・トラップさんの実話自伝を元にした作品だった
- 実際の脱出は「夜のアルプス越え」ではなく、ゲオルクさんのイタリア国籍を使った合法的な列車での出国だった
- 「音楽が禁止された厳格な家庭」は創作で、先妻の時代から音楽に溢れた家庭だったとされている
- マリアさんは自分の物語の映像化権をわずか9,000ドルで手放し、映画の巨大な収益からの利益はほとんど得られなかった
- マリアさんは映画プレミアにも招待されず、原作者でありながら冷酷に扱われた経緯があった
- 子供たちはその後それぞれ農場・ロッジ・醸造所などを経営し、バーモント州に根ざした多角的なビジネスを展開している